東日本大震災からもう少しで9年。旅人の話。
2011年3月11日からもうすぐ9年が経とうとしています。
ご存じの方も多いとは思いますが、東日本大震災があった日。
気づけば当時35歳だった私も44歳となりました。
震災の翌日、朝5時くらいの町内放送で中学校のグランドに呼び出させ、何もわからないままバスに乗せられての文字通り「着の身着のままの避難」。。。
それが今、現在も続いています。
もちろん中には元の生活に戻っている人もいますし、選択肢はあるけれども別の生活を送っている人もいます。ただ、9年が経とうとしている今でも私たちにはまだその選択肢はありません。そんな人間もまだいるのです。
当初は「転勤みたいなモノだと考えるようにしよう」と自分に言い聞かせていましたが、まあ、もう少し前向きに「旅」だと思うことにしましょうか。
震災後のストーリーは人それぞれに色んな物語もありますが、忘れないようにそんな一つの旅の様子を書いて見ようと思います。
震災の1年半ほど前(2009年の8月頃)、100坪くらいの土地に使ってなかった築20年くらいの放置されていた事務所があったので、それを購入しました。
33歳の時ですね。
事務所・・・と言ってもトイレなど上下水道もない状態で。。。「事務所として使おうと思ったんだろうけれどその途中で放置されていた事務所」でした。なのでまずは水回りのリフォームからスタート。あんまりお金をかけないように出来るところは自分たちで行い。。。地面を掘り起こしてパイプを入れ・・・とそんなところから。
建物の表面はペンキを塗って貰い、花壇なども作りたくさん花を植え、木を植えて。
事務所の中には観葉植物なども置いたり、カーペットを貼ったり2ヶ月程度かけて事務所を作りました。(2009年の10月ころ。)そうやって作った初めての自分の事務所だから思い入れも強かったのですが。。。
そして、2011年3月11日を迎えます。
その瞬間はその事務所で迎えました。
「それ以上揺れたら地球が壊れちゃう!」
ってくらい強い揺れ。ある程度、揺れが収まってから事務所を見渡すと本棚は倒れ、滅茶苦茶な状態に。。。
連絡を取ろうとしても携帯電話は通じない。
それどころか水道も電気もライフラインはすべて止まっていることに気づいたのはしばらく経ってからのこと・・・です。
実家も近かったので急いで戻ろうと車を走らせますが途中のコンビニの様子で電気が止まっていることに気づきます。途中、兄貴のアパートに寄り家族の無事を確認して、実家に戻ると窓ガラスが割れたり酷い様相ではありましたが、父親は無事でした。
ところが母親がいない。
どうやら粗大ゴミを捨てに隣の隣の町まで車で出かけたらしい。
次に弟の家に寄ろうとしますが、その入り口の立派な家の巨大な石の壁が崩れて車が通れなくなっている。途中、地震やその余震の恐怖で田んぼの中で座り込んでいる人たちなどに声も掛けながら、車を置いて歩いて弟の家に向かいます。
インターホンを鳴らすと出てきたのは私の母親!
とりあえず一安心しながらも幼稚園などに通っている甥っ子などを迎えに行きます。
途中の道は陥没していたり、橋は大きな揺れで段差が出来ており車の下をこすりながら、なんとか甥っ子たちを連れ出すことが出来ました。
幸い実家は飲み屋さんをやっていたので、食料というかお菓子やらジュースも含め、ある程度の食料はあったのでまだ明るいうちにそれらをかき集め、毛布やストーブ、カセットコンロなどを用意し兄弟家族を集めて過ごさせるようにしました。
その時、弟は新幹線の中。兄貴は福島第一原子力発電所内にいましたが、車の渋滞が凄かったらしく、車を乗り捨て夜遅く歩いて帰ってきました。
でもあまりの人数になり、部屋が手狭になってしまったのと、飼っていた猫も心配だったので私は事務所に戻り夜を過ごしました。
余震も凄かったのでほとんど寝れない夜ではあったのですが、朝も5時くらいに目が覚めてしまいます。町内放送で何やら言っている。
ライフラインはすべて止まってしまっていたので、事情がよくわからない。
だけれど、とりあえず避難するために集合しろと言っている。
「すぐ戻れるでしょ。」
とバスに乗り込みましたが、そのときには全く想像出来ませんでした。
そんな生活が9年経っても終わっていないとは。。。
そんな「旅」の話・・・です。