お金の学校に行こう2020!

お金のことを基礎から学べるサイト

最近読んだ本と最近の色々思うこと試していること。

最近になって急にブログを書き始めましたが「何でかな?」を考えてみました。

 

[http://]

 

個人的に悩んだりすると、いつも本屋さんに行って本を読むクセがあります。

読み漁る・・・とか、本を探しに行く・・・といった方が正解かもしれませんが。。。

今はkindleなどがあるので読み放題で読み漁っていますが、いつも「今、取り組むべきキーワード」を探しています。

 

余談にはなりますが、本を一冊読んで一つでもそのキーワードが見つかれば儲けもの。

それがなかなか見つからなかったりするので読み漁ります。

 

で、それが見つかったらそれをとことんやり続ける。

今回はこの本にある「トップが魅力的なら売上はあがるんだよ。」という言葉でした。

毎回、その時その時でテーマが違います。

昨年、居酒屋さんをはじめることとなり、やはりそれで七転八倒。日々、悩む。

どうやったらお客さんが来てくれるか、毎日毎日考えています。

本業の社労士は黙ってても仕事の依頼が絶えないのに、何でなんだろう・・・と。

社労士と居酒屋さんの経営、何が違うんだ?と。

なのでこの本でこのキーワードを見つけ、「自分が魅力的になろう」・・・と思いました。「まだまだ魅力が足らないから売上があがらないんだ」・・・と。

 

居酒屋さんの場合、料理が美味しいからだけで店が流行ることはないと思います。

料金が安いから、場所が良いからだけでも決してない。

まあ、すべて良いに越したことはないですが、それだけではない何か「プラスαの要素」が必要になってくると思っています。

ほとんどの職人さんが自分の腕に自信があって独立して、ほとんどのお店が潰れていっているワケですから。

社労士の仕事の場合、すべて自分が出ていけるのでお客さんが途切れることはありません。ということは多少なりとも魅力を感じて貰えているのだと思いますが、居酒屋の経営はすべて私が出ていけるワケでもない。だから、もっと・・・と。まだまだ何かが足りないのだと。

 

でもどうやったら魅力的になれるんだろう・・・はよくわからない。

わからないけれど「自分が得意だと思うことをしよう。」と。それでブログを書いています。

 

私の好きな作家さんに松本清張さんがいて、こんなことを言っていました。

「10年文章を毎日書き続ければ、プロの物書きになれる。」

その言葉をキーワードに27歳当時の私は毎日来る日も来る日も文章を記事を書いていました。35歳の時、東日本大震災による避難生活を送るハメになり、それは中断してしまっていたのですが。。。7~8年は続けたでしょうか。

 

あくまで個人的な考えですが、話す方も多少は得意な分野だとは思っているのですが、それよりも文章を書くことの方が断然得意だと勝手に思っています。

でも、ずっと中断していたのでリハビリ感覚でとりあえず書いています。

 

何が魅力的で何が魅力的でないのか正直わかりませんが、とりあえず自分が好きで自分が得意だと思うことを突き詰めてみよう・・・なんて。

資格取得の話も色々書いていますが、そもそもは「雑誌などで記事を書くための手段」としてはじめた経緯があります。それが今は本業になっているのですが、最初のキッカケはただの手段。プロの物書きになりたかった。本を出版とかしたかった。

 

私が震災の時、自分に言い聞かせていたキーワードは、

「自分に変えることが出来ないことで悩まない。悩むぐらいなら自分が変えれることを必死に取り組む。」

東日本大震災地震だったり、原発事故による避難とか変えられないことで悩むより、自分が今出来ることを全力で頑張る。その結果、今持っている資格を取ることが出来ました。だけど昨年10月の台風の大雨による被害だったり、今回の新型コロナウィルスなどの問題が立て続けに起こる。つまり、まだそれを学んで卒業出来てないから同じような問題が起こるのだと勝手に考えています。

 

もちろん人のせい、環境のせいにするのは簡単です。

でも人の事は変えれないし、自分が変わるしかない。

環境が悪いから・・・とそのせいにして成長出来るのなら別ですが、そんなことをしても全く意味はない。

とはいえ、文章(ブログ)を書くようになったら魅力的になれるのか?は別問題だとも思っています。でも、とりあえず今自分にできること。取り組めることを全力で頑張る。そうやって今まで生きて来ました。

 

何もしないで環境が勝手に変わってくれるのを待つ・・・なんてことは出来ない性格です。昨年の自分より、成長している自分でいたい。

10年前の自分が今の自分を見て「なかなかやるな!」って尊敬される自分でいたい。

 まあ、それほど若くもないので「過程」ばかりを大事にしてばかりもいられません。

「結果」も非常に大事。

 適当に文章を書くのではなく、本気で結果を残すためにこれからも文章を書き続けたいと思っています。。。なんて、ただの独り言・・・です(笑)

 

 

旅人がはじめる資格取得のチャレンジ2011

「6月に○○が秋田(角館)で結婚式やるから来てって!」

 

と大学時代の友達に言われた時のことを今でも覚えています。

そう言われたのは2011年4月の下旬頃だったでしょうか。

なぜ覚えているか?

 

「えっ、今、こんな状況で結婚式に出るの?」

 

と正直に思ったから・・・です。

2011年の4月と言えば東日本大震災の1ヶ月ちょっと経った頃。

その電話を受けたときは福島県いわき市にいました。

前回書いた三春のデンソー工場に1ヶ月ほど避難生活をし、その後、4月に入って会津若松市のホテルに移動していました。(最初は喜多方のホテル。)

久しぶりに布団で寝ることの気持ち良さを感じ、落ち着くまもなく私はいわき市に来ていたのです。

父親、母親はもちろん当時93歳だったばーちゃんもほかの兄弟も一緒に生活出来るようになり落ち着いたので(寒さもごはんの心配もすることが無くなった。)、今後は兄貴のお世話をするために。。。

 

私の兄貴は三春のデンソー工場にいた頃、震災から10日も過ぎようとした頃に職場に呼び出され、福島第一原発の復興作業に駆り出されていました。

恐らく環境は劣悪。放射能の危険など恐らく私の比ではないほどの不安な生活をしているだろうから、せめて食事の世話くらいは・・・と兄貴の住むアパートに住み込みごはんなどを1週間程度作っていました。その時受けた電話だから今でも覚えているのです。

まあ、ある意味衝撃的で自分の心がひどく動揺して悩んだのだと思います。

着の身着のままの避難生活。スーツなんてないし。

それに正直、人の幸せを祝福しているような状況ではない。

でも、敢えてだからこそ結婚式に出席することにしたのですが。。。

その友達には感謝しています。文句ではありませんからね(笑)

 

兄貴の家族が戻ってくることになり、お役御免になった私は5月初め会津の避難先に戻ります。「こんな時だからこそ敢えてやる。」

これは震災後の私のテーマの一つ・・・でした。

 

震災前まで継続していた資格取得の勉強を再開する。

まあ、こんな避難生活ですから住所はない。

住所が無ければ試験も受けられないのですが、調べたらホテルを郵便物の送り先にして貰い試験が受けれることがわかったから・・・です。

 

まず第一弾が2011年6月に行われた「CFP(R)認定者」の試験に受かること。

それまで6科目中4科目は合格していたので、あと2科目。

ちょうどゴールデンウィークから勉強を再開します。

避難先であった会津若松市には震災の少し前に会津稽古堂」

www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp

という新しい図書館が出来ており、そこに通い高校生に混じり勉強していました。

1ヶ月とちょっと勉強した頃試験を受けるのですが、その試験の日が秋田での友達の結婚式の次の日でした。(仙台市で受験)

 

角館で友達の結婚式に参加し、次の日に仙台に戻り試験。

結果は無事、2科目とも合格。

当然の結果かもしれませんが、その時の福島県での合格者は唯一私1人でした。

 

その頃には会津若松から中通り須賀川市へと移動。(親などは会津若松市

秋田犬との2人暮らしがスタートしていました。

この頃の私は仕事をしながらも会津若松市須賀川市いわき市、文字通り「浜・中・会津」(浜通り中通り会津地方)を横断しながら、勉強の日々を送っていました。そこで落ち着くこと無く次の試験。8月の社労士試験の勉強を再開します。

勉強出来る時間は2ヶ月ちょっと。。。

 

その後、社労士試験の2週間後くらいの9月に「1級ファイナンシャル・プランニング技能士試験」、その1ヶ月後の10月に宅建試験」と立て続けに受験。。。

 

その間、「こんなときに俺は何をやっているんだろう。」

と何度思ったことか。何度投げ出したくなったことか。

そう思うたびに「こんなときだからこそ敢えてやるんだ。」

と半分泣きながら、歯を食いしばりながら勉強しました。

「こんなときに全部試験に受かったらちょっと格好良いかも?」・・・などと妄想して自分を励ましていたような気もします。

 

話は変わりますが私は変なプライドがあって、試験当日、試験を受ける間際は絶対にテキストを見ない・・・なんて自分ルールを持っていました。

でも、そのときの試験だけは別。

試験直前までテキストを眺めていました。

受験会場はいつも試験会場となっていた場所が津波で被災したため、仙台市内の別の会場で社労士試験は行われました。

まあ、結果論とはなりますが、その直前に見たテキストから「2問」問題が出たのです。そのおかげで無事、社労士試験合格。

 

「頑張っていると神様がサービスしてくれるのかな?」なんて思ったり、被災しているから「被災者割引」でもしてくれたのかな・・・なんて思ったり。

調べてないからわかりませんが、その年、少なくとも福島県浜通りでの合格者は私1人だったのではないでしょうか。。。


f:id:akkimon:20200305201642j:image

 

「過去の自分が今の自分を助けてくれる」

まさに2011年のときの自分が今現在の自分を助けてくれている。

これだけはハッキリ言えると思います。

 

 

そして、居酒屋経営が始まった。

はじめて物件を見たとき、「大黒さんにしよう!」と決めました。

うちの親父が大熊町でやっていたお店は「スタジオナンバーワン」というお店だったので、「居酒屋ナンバーワン」にしようと思っていたのですが。。。

まあ、ちょっと恥ずかしいけれど親父のやってた軌跡を残そうと思っていたので。

でも、思いつきで軌道修正(笑)

 

近くには有名な「大黒様の宝くじ売り場」ってのもありましすし、いわき市には昔「大黒屋」というデパートがあったのですが、それも近所だったし。何より物件が真っ黒な建物だったので。


f:id:akkimon:20200305130343j:image

 

まあ、現実的な話をするといわき市(平)の現状だと、みんなが集まって飲み会などをする地域からはちょっと外れている。で、ランチをしないと売り上げ的に厳しいのでは?という考えもあり。。。ランチをやるお店が「居酒屋ナンバーワン」ではちょっと厳しいな・・・というのが大きかったと思います。

 

あとネーミング的な話だと「すぐ覚えてもらえるネーミング」という考えが頭にありました。でないと、お店を覚えて貰えない(笑)

そして、好きで言っている神社である大國魂神社で祀られている神様が大黒様だったことなど色々・・・です。

 

3月25日に物件の引き渡しがあって、そこから1週間。

4月3日からプレオープンで知り合いなどを招待し、4月11日にオープン。

バタバタ具合にも程がある・・・というスタートでした。

 

 はじめからランチを始めたのも色んな理由があります。

地域的な考えなどかはわかりませんが、途中からランチをやると

「あの店、売り上げ落ちたからランチやってんだ。」

という見方をされるみたいです。

だったら最初から・・・とそんな感じ。

 

もちろんやってみないことには何もわからないので、売り上げ的なことも含め、また毎月のように集客のために広告を出してお金を使う位なら、お客さんに「ランチでサービスして味を知ってもらおう!」というのがありました。まあ、CMみたいなカタチで。。。まあ、その選択は上手く行ったとは思います。

 

ただ、ランチをやると「労働時間がどうしても長くなる。」

そこから逆算して夜の部の閉店時間を22:00としました。

でもいざはじめて見るとスタッフの疲労度が半端ない。。。

暇な日は良いけれど、夜忙しい日などはもう大変。

お店をはじめて1、2ヶ月で「もうランチやめようか」と思う始末。。。

とはいえ、はじめたばかりだしそんな中途半端なことも出来ないし・・・と悩む。

はじめ11時スタートだったランチを11時30分にし、14時終わりだったのを13時30分ラストオーダーに変えたりして少しでも労働時間を削減をしようと試みます。

 

色々悩んだ結果、「ランチ は2020年3月31日で終了」することにしました。

ちょうど開店から1年が経つのを契機として。。。

お客さんへの周知という側面においては十分役割は果たしたと思いますし。

ただ正直、ちょっと怖い。売り上げが下がるのは目に見えていますし。

昼も夜も営業することにより良くも悪くも中途半端になってしまっているのではないか・・・という思いと、「ランチのお店」という認識が定着してしまうのも困る。

そもそも居酒屋さんというのは「夜で勝負」が本来のカタチでしょうし。。。

ただ、労働時間の心配は無くなるから月に2回も連休を作る必要もなくなる。

そして、言い訳も出来なくなるよう追い込もう・・・という思いも。

 

その場面、場面で「決断」を迫られ、「自分の責任でやるしかない」のが経営というモノ。環境や人のせいになど出来ない。まあまあ厳しい世界です。この1年でそういった場面が何度あったことか。そして、これからもたくさんやってくるかとは思います。

 

ランチをやめる・・・と告知してから、会う人、会う人に「ランチやめちゃうの。残念」といったお言葉を頂きます。「噂でランチやめるって聞いたんですけど本当なんですか?」と言って頂けるお客さんも。。。

 

まだお店をはじめて1年足らずではあり、まだまだ発展途上のお店ですけれど、嬉しい評価だな・・・と。噂も立っているなんてなおさら幸せなことだな・・・と。

 

「居心家 大黒さん」(イゴコチダイコクサン)

 

「家のように居心地が良くてついつい長居してしまうお店」

 

まだまだではありますが、そういったお店にして行けるよう日々、1%ずつでも良いお店にして行きたいと思っています。



f:id:akkimon:20200305130537j:image

 

 

新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえ 「雇用調整助成金」の特例対象を拡大します・・・なニュース。

昨日の夜中に知り合いから雇用調整助成金について問い合わせがあったので、一応載せてみます。

 

 

雇用調整助成金とは、経済上の理由により事業活動の縮小を余儀なくされた 事業主が、労働者に対して一時的に休業、教育訓練又は出向を行い、労働者 の雇用の維持を図った場合に、休業手当、賃金等の一部を助成するもの・・・です

 

【特例の対象となる事業主】

新型コロナウイルス感染症の影響を受ける事業主を対象】

 

休業等の初日が、令和2年1月24日から令和2年7月23日までの場合に適用。


① 休業等計画届の事後提出を可能とします。 通常、助成対象となる休業等を行うにあたり、事前に計画届の提出が必要ですが、令和2年1月 24日以降に初回の休業等がある計画届については、令和2年5月31日までに提出すれば、休業 等の前に提出されたものとします。

生産指標の確認対象期間を3か月から1か月に短縮します。 最近1か月の販売量、売上高等の事業活動を示す指標(生産指標)が、前年同期に比べ10%以 上減少していれば、生産指標の要件を満たします。

最近3か月の雇用指標が対前年比で増加していても助成対象とします。 通常、雇用保険被保険者及び受け入れている派遣労働者の雇用量を示す雇用指標の最近3か 月の平均値が、前年同期比で一定程度増加している場合は助成対象となりませんが、その要件 を撤廃します。

事業所設置後1年未満の事業主についても助成対象とします。 令和2年1月24日時点で事業所設置後1年未満の事業主については、 生産指標を令和元年12月の指標と比較し、事業所設置から初回の計画届前月までの実績で確 認します。(※12月分の生産指標は必要となります)

 

今回のポイントは「計画届が事後申請でも良い」という点。

本来であれば3ヶ月の売上高等で判断するところを「1ヶ月に短縮」されている点。

「事業所設置後1年未満の事業主についても助成対象」としている点・・・です。

 

 

新型コロナウイルス感染症の影響に伴う「経済上の理由」とは】

以下のような経営環境の悪化については経済上の理由に当たり、それによって事業活動が縮小し て休業等を行った場合は助成対象となります。 (経済上の理由例)

・取引先が新型肺炎の影響を受けて事業活動を縮小した結果、受注量が減ったために事業活動が縮小して しまった場合。

・国や自治体等からの市民活動の自粛要請の影響により、外出等が自粛され客数が減ったために事業活動 が縮小してしまった場合。

風評被害により観光客の予約のキャンセルが相次ぎ、これに伴い客数が減ったために事業活動が縮小して しまった場合。

 

■休業を実施した場合の休業手当または教育訓練を実施した場合の 賃金相当額、出向を行った場合の出向元事業主の負担額に対する 助成(率)

大企業:2分の1 中小企業:3分の2

※ 対象労働者1人1日当たり 8,330円が上限です。(令和2年3月1日現在)

 

■教育訓練を実施したときの加算(額) 1人1日当たり1,200円 

 

■支給限度日数 1年間で100日 (3年間で150日)

 

この助成金を受け取るためには、事業主が労働基準法に沿った休業手当を労働者に支給して雇用を継続することが条件となっています。一応、参考までに。

 

新型コロナウイルス感染症の影響に伴い雇用調整助成金においては特例を実施しています。【PDF:199KB】

東日本大震災の10日後の世界。

「えっ、この道どうやって通るの。通れるの?」

 

「だんだん、曇ってきて前、見えないんだけど!」

 

雨が降りしきる中、車を走らせ北に向かう。

ここは県道35号線(通称、山麓線)。

この道路は原子力発電所が出来た際の避難道路として作られた・・・なんて聞いたことがあったな。そんなことを思い出す。

 

道路の脇にはトラックから普通の乗用車などが数え切れない無数に停められている。

いや、乗り捨てられたのだろうか。

地震の影響で道路が隆起して段差で車のタイヤがバーストしてしまったのか。それとも。。。

道路の斜面などは崩落してしまっている場所も多く、停められた死骸のような車はあれど人の気配はない。そして、ほかに走っている車もいない。不謹慎な表現かもしれないけれど、まさに「何かの映画の世界」だった。自分たち以外には誰もいない。。。

 

この頃の私たちは放射能が危ない。」というだけで詳しい知識はなかった。

ただ、エアコンなどをつけると外から放射能が入ってきてしまうから・・・とエアコンは切っているため、車内の窓が白く曇ってくる。そもそも雨で視界が悪いうえにあちこちで崩落も。道路の状況は最悪と言っていい。

季節は3月。東日本大震災があった11日から10日ほどしか経ってない。

エアコンを切って走る時期ではないが仕方ない。寒さと恐怖に震えながらさらに北に向かう。「もしかしたら封鎖されてしまう」といった噂もあり、急ぎながらも慎重に車を走らせる。その前に私にはやるべきことがあったのだ。

途中、誰かに止められてしまう可能性もあったがそれは杞憂で終わった。

自分が住んでいた町、福島県大熊町は誰もいない町へと様変わりしていた。。。

 

 

震災の翌日の早朝、バスに乗せられた私たちは隣の都路というところに移動する。

それほどたいした距離ではない。時間はかからなかった。

そこでは町の人たちが私たちのために避難所の設置やご飯の炊き出しの準備をしてくれていた。体育館には多くの人が。そこにはテレビもあり、みんなそこで状況を見つめていた。その時だった。テレビの画面で爆発の瞬間が。。。

結果的には水蒸気爆発だったのだが、その瞬間は兄貴を顔を見合わせて「あっ、終わったな。」とお互いに口にしていた。

 結果、10キロ圏内は避難といった指示が出て、今までお世話してくださっていた都路の人たちも避難しなければならない状況へと急変。

そして、その日のうちにまた移動。私たちは船引の小学校へ。そして、その3日後、田村市三春のデンソー工場に移動させられる。

 

そこで初めて親などと合流することが出来た。

家族の数は10人を超える大所帯。工場の床はコンクリート

その上に段ボールを敷き配られた毛布を巻く。当時93歳のうちのばあちゃんには本当につらい寒さだったと思う。本当に厳しい寒さだった。

 ハッキリとした数字は覚えていないが確か約1500人がその工場に避難していた。

少しでもみんなの気分を変えれたら・・・と買ってきたチューリップの鉢植えが3日も経たず枯れてしまった。それくらい将来の不安と恐怖が渦巻いていた空間だったのだろう・・・と今なら思う。

 

震災から10日が経った頃、やっと郡山からいわきへの高速バスが出るようになったという情報を何かで知った。三春のデンソー工場から郡山駅までタクシー移動し、いわき行きの高速バスに乗り込む。震災の翌日、バスに乗り込んで一斉に避難したから移動手段がなかったのである。名目は移動手段を確保するための帰還。

でも私の目的はもう一つあったのだけれど。。。

 

 

事務所に入って声を上げて探す。

いない。どこを探してもいない。

事務所はもちろん電気もつかず、外は雨なので暗い。ガラスの破片があちこちに散らばっているから土足のままで探す。

実は車を取りに来るのと震災後、置きっぱなしで心残りだった飼い猫を連れに来たのが真の目的だった。

 

 

バスで避難する前、ありったけの餌はおいてきた。

だけれど、水がない。

地震の直後から水道などライフラインはストップしていたので猫用の水が無かったのだ。仕方が無いので飲み残していた紅茶などを置いてなんとかしのいで貰おうと思った。まあ、2~3日程度であればなんとか大丈夫だろう・・・と。

ただ、閉め切っている室内とはいえ、福島第一原子力発電所から4キロも離れていない。放射能は大丈夫だろうか・・・と心配は尽きない。

 

避難所で知るテレビの情報だと戻れそうな雰囲気など全く無かった。

やばい。このままでは猫を死なせてしまう。どうしよう・・・と毎日、頭から離れない。

そこで知った郡山ーいわき間の高速バス運行再開のニュース。

父親を説き伏せて、いわきで茨城に住んでいた妹から車を借りる手はずを整えて、いわき市から県道35号線を通り大熊町に帰る・・・という計画だった。

国道6号線が崩落しているニュースは知っていたのでそのルートしか無かったのだ。。。

 

 

 猫がいたであろう部屋は極度のストレスからか、滅茶苦茶になっていた。

トイレの砂は飛び散らかり、たくさんおいてきたハズのエサもカラに。水はもちろんない。でも外に出れる隙間のようなものもないから、室内にいるハズなのだが。。。

猫を呼んで探すも返事もしない。普段ならすぐ甘えてよってくる猫だったのに。。。

放射能の心配もあり、それほど長くはいられないだろうからと焦る。。。

恐らくそれほどの時間は経っていないのだろうけれど、放射能の恐怖と焦りがそれをわからなくする。そして、やっとみつける。「いた!!!」

しかし、名前を呼んでも泣き叫ぶだけで全然よって来ない。捕まえられない。逃げる。

父親と約束した時間は30分。タイムリミットが刻々と迫ってくる。。。

 

 

小学生の頃、大熊町の将来の姿をお題にキャッチフレーズを作る。」というコンテストがあった。友達が特別賞を受賞した言葉をふいに思い出す。

選んだ方も半ば冗談で賞を贈ったであろうあの言葉。。。

勢いで大熊町へ侵入したは良かったが帰り道になって初めて恐怖が沸いてくる。

帰り道のにもむき出しになった道路の段差などでバーストしていたりする車を何台も見かけ、「もし今乗っている車のタイヤがバーストしてしまったらどうしよう」・・・という恐怖が。。。携帯電話は繋がらないから外部と連絡する手段はないし、周りには誰もいないから助けを呼ぼうにも呼べない。どうなってしまうのだろう。

線量は今、どれくらいあってどれくらい身体に害を及ぼすのだろう・・・と。

 

 

「猫を連れて帰るなんて聞いてないぞ。」

 

 

と親父に文句を言われながら、放射能を洗い流すために三春の温泉施設で実に10日ぶりのお風呂の入る。無事目的を果たした今、父親の小言などどこ吹く風的なほどの安心感が漂う。それは久しぶりに入るお風呂の気持ち良さなのか、猫を無事救出したからなのか。。。それともあの恐怖の空間から無事、逃げ出すことが出来た安心感からなのかはわからない。

 その空間はまさにこの言葉が適切だった。

小学校時代の友達が審査員特別賞を受賞した大熊町の10年後の姿のネーミングが現実になってしまった。・・・そう思った。

「ゴーストタウン」

恐らくほとんどの人が覚えていないだろう。もしかしたら冗談のように聞こえてしまうかもしれない。だけれどこれは作り話などではない。本当の話だ。

生命保険の賢い入り方?医療保険編。

「生命保険の賢い入り方なんてあるの?」

 

まあ、これは難しい問題です。

最近は節約志向が強いので若い人たちは生命保険に加入していない人が多いとか、そういった若い人たち向けに「ネット保険」なども登場しています。

あとはチラシなどでよく入ってくる都道県民共済であったり、会社で用意してくれている「生命保険(団体保険)」であったり。。。

 

しっかり整理されている方であれば良いですが、

「どこにどれくらい入っているかわからない。」

なんて人も少なくはありません。

 

節税だったり生命保険などでもそうなのですが、1番大事なキーワードがあります。

「入口と出口」(いりぐちとでぐち)です。

 

生命保険などの場合の「入口」とは「生命保険に加入するとき。」

同じく「出口」とは「実際に給付などを受けるとき。」

 

普通、生命保険に加入するときなどは例えば「入院が1万円」「死亡が2000万円」とかなんとなく決める人が多いと思います。(勧められるがままに・・・とか。)

 それが悪いというワケでも間違いでもないのですが、「出口をイメージしてみてはどうですか?」という提案をしてみたいと思います。

 

例えば医療保険「入院日額1万円で良いのかな?」と漠然と思ったりする人も多いかと思います。じゃあ、実際にいくら必要になるのかな?と考えることからスタートするのが「出口をイメージする。」ということです。

 

同じ入院と言っても病気やケガにおいても「業務上か業務外か」で異なります。

この場合の「業務上・・・とは仕事の途中かそうでないか」・・・という話。

 

まあ、いわゆる「労災かどうか?」です。

仮に仕事中のケガなどで長期の入院・・・となれば、医療費の負担はない上に、ある程度の給料の保障があります。これを休業補償給付と言います。

 

ちなみに労災の休業補償給付、休業の4日目から平均給与日額の60%の休業(補償)給付に加え、平均給与日額の20%の休業特別支給金が支給されます。つまり、給与の80%が支給されるイメージです。(3日目までは事業主が補償。)

まあ、呼び方は変わるのですが、通勤途中の事故なども同様です。

 

健康保険:3割負担(原則)

労災保険:無料(通勤時の怪我:200円初診時のみ)

 

労災によるケガなどの入院の場合は、ほとんど出費がなく、また収入の補償もあるのでそれほど金銭的な負担が増えることはありません。

まあ、仮に入院日額1万円の医療保険に加入していたとして、1ヶ月入院を強いられたなら入院日額1万円×30日=30万円の給付を受けることが出来ます。(手術等の給付は別途。)

 

まあ、業務上は別としても、問題は「業務外」・・・ですね。

家の階段で転んで骨折した!・・・とか、持病で入院とかそんながモノが業務外にあたります。

この場合、入院の費用などは「原則3割負担」です。

ただ、いわゆる社会保険の「健康保険」に加入しているとこんな仕組みもあります。

www.kyoukaikenpo.or.jp

 

簡単に書けば「お医者さんが労務不能と認めてくれる期間」は、傷病手当金を請求することが出来ます。4日目から最大1年6ヶ月間。(この場合の3日は事業主補償なし。)

支給される額は「標準報酬日額×3分の2」です。まあ、具体例など詳しくは全国健康保険協会のリンクを参考までに。

 

ちなみに治療費の場合、原則は3割負担ではありますが、仮に医療費が高額になってしまったときのために「高額療養費」という制度があります。

これは「限度額適用認定証」医療機関に提出すれば病院側で計算してくれます。

 

70歳未満の方の区分で、所得が下記に該当する人の自己負担限度額。

③区分ウ
(標準報酬月額28万円~50万円の方)
(報酬月額27万円以上~51万5千円未満の方)
80,100円+(総医療費※1-267,000円)×1%

 

大雑把に書けば仮に医療費100万円がかかったとして、本来は原則3割負担なので30万円の負担となりますが、上記の所得区分の人であれば9万円弱の医療費で済む・・・という制度です。(多数回該当だとさらに安くなる。)

 

一人一人のケースを詳細に書くことは出来ないのですが、仮に標準報酬の平均が30万円の人が1ヶ月入院した場合のケースだと。。。

 

傷病手当金:30万円÷30日×3分の2=6.667円(小数点第一位は四捨五入)

6.667×27日=180.009円(4日目から支給なので27日で計算)

ここで約12万円の収入の減少となります。

 

ちなみに医療費は先ほどの例(医療費が月100万円)で計算すると。。。

80.100円+(1.000.000-267.000円)×1%=87.430円

まあ、ざっとではありますがこんな感じとなります。

 

 余談ではありますが、この「傷病手当金」はいわゆる「国民健康保険」だったり、扶養入っているいわゆる「第3号」に該当する人にはない制度なので注意が必要です。

 

「おっ、それなら入院日額1万円で足りるのでは!?」

 

と思った方もいるかもしれませんが、ちょっとした注意点も。

この「高額療養費制度」

収入によっても限度額の計算方法は変わってきますし、1番気をつけないといけないのが「1ヶ月の治療費が」・・・といった点。

仮に3月16日から4月15日までの1ヶ月だと話は変わってくるのです。

 

www.kyoukaikenpo.or.jp

 

その文章のはじめにこう書いています。

 

高額な医療費を支払ったときは高額療養費で払い戻しが受けられます。
高額療養費とは、「同一月(1日から月末まで)にかかった医療費の自己負担額が」高額になった場合、一定の金額(自己負担限度額)を超えた分が。。。

 

その人の環境によって色々変わってくるでブログを読んでくれている方にぴったりな説明は出来ませんが、一度「出口をイメージ」してみることもおすすめしてみます。

 

まあ、実際は標準報酬月額が30万円であっても手取りは違うでしょうし、傷病手当金を貰ったとしても社会保険の負担はあるので厳密な計算はさらに細かくなってしまうのですが、ある程度でも制度の概要を知っておくだけでも全然違うと思います。

 

次は医療保険の注意点なんかも紹介してみたいと思います。

 

 

社労士って資格を取れば食べれるの?

「社労士って資格を取れば食べれるの?」

 

よく聞かれる質問の一つでしょうか。

akkimon.hatenablog.com

 

こちらの過去記事で書いていますが、「資格を取ると周りの見る目」が変わります。

まあ、これは確実に変わる。多くの場合、人はその人物を背景で判断するから・・・です。

 

とはいえ、資格を取ったからと言って仮に周りの評価が高まっても、自分が変わるワケ

ではありません。残念ながら。

多少の知識は身についているハズですが、中身はそれほど変わりません。

資格を取ったくらいで急に偉くなるワケではないからです。

頑張って社労士試験に受かればわかります。

世の中には社労士がたくさんいることに(笑)

 

とりあえず結論だけ書くと「普通に人とコミュニケーションが取れる人」

であれば、資格を取って食べていくことは難しくないと思います。

 

そこまで難易度が高い資格ではないですけれど、やはり頭の良い人は多い。

でも、「対人力」があるかと言えばそうでない人も多い。

ちなみに顧客となるお客さんはだいたい社長さんと呼ばれる人たちが多いですから、そういった人たちと普通にコミュニケーションが取れれば何の問題もないのです。

 

知識量などだけで考えれば私より頭の良い人の方が多いと思います。

でもお客さんとのコミュニケーション能力が高い人の方が重宝される世界です。

 

多少、法律をかじっているので上から目線の人が多いらしく(あくまでお客さんの感想)、「あの社労士嫌いだから変える」というケースが意外に多かったり。

なので多少知り合いなどがいれば、紹介、紹介で自然とお客さんは増えていくと思います。

もし増えていかないのだとすればコミュニケーションに問題があるのかも・・・です。

 

ちなみに社労士の場合、開業という選択肢を選ばずとも食べて行く方法はあります。

労基署や労働局、年金事務所に勤務(いわゆる行政協力)したり・・・と色々。

まあ、個人的には社労士の資格を取り大企業などの総務や人事の方に就職したりする方法をおすすめしますが。。。

 

私も2年ほど年金事務所に週1で勤務していたこともあります。

なぜなら「年金が苦手だったから。」

試験で足きりにあうのが年金だったので苦手意識をなんとかしようと。。。

知った上で年金(老齢・障害・遺族等)の手続きを仕事にすることは選択肢から外しました。やり方は知ってるけれどやらない。実際、自分から進んで仕事として受けることはないです。(ほかにやること、お願いされることが多いので。)

 

試験に合格して開業しても、どんな内容の仕事をするかわからない職業ではありましたが、「本当に自分に合っている職業だな。」とは思います。

相談や仕事の依頼の電話が鳴らない日などありませんし、逆に電話恐怖症になってしまうくらい。。。

 

まあ、資格を取れば相談される機会も増えてくるとは思いますので、そういった相談に一つ一つ答えて(応えて)いけば自ずと顧客は増えてきて食べれるようになる。

そんな資格だとは思います。