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東日本大震災の10日後の世界。

「えっ、この道どうやって通るの。通れるの?」

 

「だんだん、曇ってきて前、見えないんだけど!」

 

雨が降りしきる中、車を走らせ北に向かう。

ここは県道35号線(通称、山麓線)。

この道路は原子力発電所が出来た際の避難道路として作られた・・・なんて聞いたことがあったな。そんなことを思い出す。

 

道路の脇にはトラックから普通の乗用車などが数え切れない無数に停められている。

いや、乗り捨てられたのだろうか。

地震の影響で道路が隆起して段差で車のタイヤがバーストしてしまったのか。それとも。。。

道路の斜面などは崩落してしまっている場所も多く、停められた死骸のような車はあれど人の気配はない。そして、ほかに走っている車もいない。不謹慎な表現かもしれないけれど、まさに「何かの映画の世界」だった。自分たち以外には誰もいない。。。

 

この頃の私たちは放射能が危ない。」というだけで詳しい知識はなかった。

ただ、エアコンなどをつけると外から放射能が入ってきてしまうから・・・とエアコンは切っているため、車内の窓が白く曇ってくる。そもそも雨で視界が悪いうえにあちこちで崩落も。道路の状況は最悪と言っていい。

季節は3月。東日本大震災があった11日から10日ほどしか経ってない。

エアコンを切って走る時期ではないが仕方ない。寒さと恐怖に震えながらさらに北に向かう。「もしかしたら封鎖されてしまう」といった噂もあり、急ぎながらも慎重に車を走らせる。その前に私にはやるべきことがあったのだ。

途中、誰かに止められてしまう可能性もあったがそれは杞憂で終わった。

自分が住んでいた町、福島県大熊町は誰もいない町へと様変わりしていた。。。

 

 

震災の翌日の早朝、バスに乗せられた私たちは隣の都路というところに移動する。

それほどたいした距離ではない。時間はかからなかった。

そこでは町の人たちが私たちのために避難所の設置やご飯の炊き出しの準備をしてくれていた。体育館には多くの人が。そこにはテレビもあり、みんなそこで状況を見つめていた。その時だった。テレビの画面で爆発の瞬間が。。。

結果的には水蒸気爆発だったのだが、その瞬間は兄貴を顔を見合わせて「あっ、終わったな。」とお互いに口にしていた。

 結果、10キロ圏内は避難といった指示が出て、今までお世話してくださっていた都路の人たちも避難しなければならない状況へと急変。

そして、その日のうちにまた移動。私たちは船引の小学校へ。そして、その3日後、田村市三春のデンソー工場に移動させられる。

 

そこで初めて親などと合流することが出来た。

家族の数は10人を超える大所帯。工場の床はコンクリート

その上に段ボールを敷き配られた毛布を巻く。当時93歳のうちのばあちゃんには本当につらい寒さだったと思う。本当に厳しい寒さだった。

 ハッキリとした数字は覚えていないが確か約1500人がその工場に避難していた。

少しでもみんなの気分を変えれたら・・・と買ってきたチューリップの鉢植えが3日も経たず枯れてしまった。それくらい将来の不安と恐怖が渦巻いていた空間だったのだろう・・・と今なら思う。

 

震災から10日が経った頃、やっと郡山からいわきへの高速バスが出るようになったという情報を何かで知った。三春のデンソー工場から郡山駅までタクシー移動し、いわき行きの高速バスに乗り込む。震災の翌日、バスに乗り込んで一斉に避難したから移動手段がなかったのである。名目は移動手段を確保するための帰還。

でも私の目的はもう一つあったのだけれど。。。

 

 

事務所に入って声を上げて探す。

いない。どこを探してもいない。

事務所はもちろん電気もつかず、外は雨なので暗い。ガラスの破片があちこちに散らばっているから土足のままで探す。

実は車を取りに来るのと震災後、置きっぱなしで心残りだった飼い猫を連れに来たのが真の目的だった。

 

 

バスで避難する前、ありったけの餌はおいてきた。

だけれど、水がない。

地震の直後から水道などライフラインはストップしていたので猫用の水が無かったのだ。仕方が無いので飲み残していた紅茶などを置いてなんとかしのいで貰おうと思った。まあ、2~3日程度であればなんとか大丈夫だろう・・・と。

ただ、閉め切っている室内とはいえ、福島第一原子力発電所から4キロも離れていない。放射能は大丈夫だろうか・・・と心配は尽きない。

 

避難所で知るテレビの情報だと戻れそうな雰囲気など全く無かった。

やばい。このままでは猫を死なせてしまう。どうしよう・・・と毎日、頭から離れない。

そこで知った郡山ーいわき間の高速バス運行再開のニュース。

父親を説き伏せて、いわきで茨城に住んでいた妹から車を借りる手はずを整えて、いわき市から県道35号線を通り大熊町に帰る・・・という計画だった。

国道6号線が崩落しているニュースは知っていたのでそのルートしか無かったのだ。。。

 

 

 猫がいたであろう部屋は極度のストレスからか、滅茶苦茶になっていた。

トイレの砂は飛び散らかり、たくさんおいてきたハズのエサもカラに。水はもちろんない。でも外に出れる隙間のようなものもないから、室内にいるハズなのだが。。。

猫を呼んで探すも返事もしない。普段ならすぐ甘えてよってくる猫だったのに。。。

放射能の心配もあり、それほど長くはいられないだろうからと焦る。。。

恐らくそれほどの時間は経っていないのだろうけれど、放射能の恐怖と焦りがそれをわからなくする。そして、やっとみつける。「いた!!!」

しかし、名前を呼んでも泣き叫ぶだけで全然よって来ない。捕まえられない。逃げる。

父親と約束した時間は30分。タイムリミットが刻々と迫ってくる。。。

 

 

小学生の頃、大熊町の将来の姿をお題にキャッチフレーズを作る。」というコンテストがあった。友達が特別賞を受賞した言葉をふいに思い出す。

選んだ方も半ば冗談で賞を贈ったであろうあの言葉。。。

勢いで大熊町へ侵入したは良かったが帰り道になって初めて恐怖が沸いてくる。

帰り道のにもむき出しになった道路の段差などでバーストしていたりする車を何台も見かけ、「もし今乗っている車のタイヤがバーストしてしまったらどうしよう」・・・という恐怖が。。。携帯電話は繋がらないから外部と連絡する手段はないし、周りには誰もいないから助けを呼ぼうにも呼べない。どうなってしまうのだろう。

線量は今、どれくらいあってどれくらい身体に害を及ぼすのだろう・・・と。

 

 

「猫を連れて帰るなんて聞いてないぞ。」

 

 

と親父に文句を言われながら、放射能を洗い流すために三春の温泉施設で実に10日ぶりのお風呂の入る。無事目的を果たした今、父親の小言などどこ吹く風的なほどの安心感が漂う。それは久しぶりに入るお風呂の気持ち良さなのか、猫を無事救出したからなのか。。。それともあの恐怖の空間から無事、逃げ出すことが出来た安心感からなのかはわからない。

 その空間はまさにこの言葉が適切だった。

小学校時代の友達が審査員特別賞を受賞した大熊町の10年後の姿のネーミングが現実になってしまった。・・・そう思った。

「ゴーストタウン」

恐らくほとんどの人が覚えていないだろう。もしかしたら冗談のように聞こえてしまうかもしれない。だけれどこれは作り話などではない。本当の話だ。